喪女と見る鬱映画〜ダンサー・イン・ザ・ダーク〜

年代別アニメ記事書き終わったら人生No.1&2アニメの個別記事書くぞ!と意気込んでたんですが更に熱量とクオリティを上げるために改めて円盤見直し始めてしまったのでもうしばらくかかるな…というわけで映画やゲームの話でもしようかと。
『鬱○○』シリーズもそのうち書くつもりだったし。


バッドエンドが好きだ。
所謂『闇のオタク・闇の腐女子』というやつである。
最終的にハッピーエンドに漕ぎ着けたとしても道中は地獄であればあるほどいい。推しカプの片割れもしくは両方が死んでも無邪気に手を叩いて興奮するタイプの重症患者だ。幸せになるな〜〜〜〜!!!

小学生の頃から深夜アニメでハードな展開を摂取していた故にこうなってしまったのかと思っていたがそれより前に読んでいたハレグゥも当時こそ意味がわからなかったが中々に闇が詰まっていたり(主にウェダ関連)児童書などにおいてもどうも湿っぽい話に惹かれる傾向があったのでもはや生まれつきと言っても過言ではないと思う。

でもなんで鬱展開に魅力を感じるのかはずっと疑問を抱える日々だった。
そして10代も終わりに差し掛かった頃、その答えは唐突に提示された。

とあるゲームの黒幕の思想である。

 

『希望は予定調和でツマラナイ、絶望こそ先が見えなくて面白い』

 

真理だ。
ハッピーエンドというのは最初からゴールが見えているのだ。

クソみてえなお涙頂戴感動映画のCMなどで『貧しい少年の元に訪れた奇跡、全米が泣いた感動の物語…✨』みたいなクソみてえなキャッチコピー、よくあるがこの一文でおおよその道筋は予測できてしまう。
逆に何のひねりもないホラー映画の『次から次へと襲い掛かる悪夢!』みたいな何のひねりのないコピーでも一体なにが起こるんだろうとワクワクしませんか。私はします。

なので鬱展開は面白いのだ。

そこからは漫画ゲーム映画小説あらゆる媒体でストーリーを基軸に選ぶ場合の指針は完全に決まった。後味最悪だの二度と見たくないだのの評判が高い系のものしか見ない。

人に「これ面白いよ」とオススメされても「鬱?」と聞き返してNoが返ってきたら即突っぱねるくらいの勢いだ。そうした結果私から離れた人々も多いが残ってくれた者は「これお前絶対好きだと思う」と各自選り抜きの鬱作品をプレゼンしてくれるので大変ありがたい。

オデ、類友、スキ。

 

これが『友情・努力・勝利』に唾を吐きかけ中指を立て続けてきた人間の生き様だ。

 

というわけで本題です。

 

Googleに『鬱映画』と打ち込んで検索上位に出てくる『心がえぐられる!?鬱になる映画10選!』的なクソまとめサイトにはほぼ必ずランクインしているほどの鬱映画の代名詞、ダンサー・イン・ザ・ダーク。(ちなみにだいたい1位の『ミスト』は個人的にはコメディだと思っている。)

実は名前だけ知ってる状態でつい最近まで見たことがなく。
大学時代に授業で見せられたことはあるのだが、90分という時間的制約の中かつ先生の解説を挟みながらなのでめちゃくちゃ早送りしながらであり『見た』とは到底言えない様相だった。

 

そうしていつかちゃんと見たいな〜と何となく思いつつ年月は経ち。
(当方、諸事情により映画鑑賞という行為に対して非ッッッ常に腰が重い。このへんについてはいつか書きます書きました

21年秋、突然『4Kリマスター版が各映画館で上映』というニュースが入ってきた。しかも何やら権利の問題とかで日本での上映はこれが最後になるという。
DiDを大画面で…というのはともかく、ビョークの歌を映画館サウンドで聴けるのはこれがラストチャンスだ。(当方元々ビョークのファンである。レディヘも好き)


行くしかねえ。そう思いチケットを取った。

 

世間はクリスマス一色(イーソー)の時期。そんな中独身女は鬱映画のチケットを握りしめ…と言いたいところだが電子チケットなのでスマホを握りしめて映画館へと向かった。

なんというか考えることはみんな同じなのか、映画館は『クリスマスに鬱映画見たろうぜww』的な陰のオーラを纏った者たちで溢れていた。もちろん満席。さほど広くないシアターに、また感染者が増え始めてちょっとピリついている時期にも関わらずギチギチに人が詰められている。カップルもいる。正気かお前ら

あらすじは調べればいくらでも出てくるので割愛。ここからは感想です。が、当然ながらネタバレを含むので未鑑賞の方はご注意を。

 

 

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク』感想


・いい人多くない?

というのがストーリーに対しての全体的な感想である。なんかもっと嫌味な人々に悪意を受けつつメンタルを擦り減らしていく感じかと思ってたがセルマの周りには基本的に善人しかいないのだ。

最終的にセルマの金を盗み自らを殺させるように仕向けた隣人のビルですら金に余裕があった頃は善意でセルマに家(といってもトレーラーハウスだが)を貸し、その息子のジーンに自転車をプレゼントするなど普通のいい人である。
そう考えると金を浪費し盗みを企てるほどにしてしまったビルの妻が一番の悪人か…?いや、家族でありながら嫌われたくない一心で妻にお前金使いすぎやぞ!と言えなかったビルが悪いか。

…作中幾度もセルマに好意を伝えていたジェフと素直に結ばれていたらセルマは幸せになれたのだろうか。

 

・映像作品としての出来

一番の肩透かしポイント。トリアーがなんで手持ち撮影にそこまでこだわったのか知らんがま〜とにかく見づらい。酔う。リリイ・シュシュのすべてを彷彿とさせるレベルのガタガタしたカメラワーク。鬱映画、手持ち撮影好きなんか?

幸いにもカットの繋ぎ方というか組み立ては悪くないのでもう無理!とはギリギリならなかったのが救い。

ミュージカルシーンも現実シーンと比べて格段に彩度が上がり明るく派手になるということもなく、仮にミュージカル部分だけ切り取ってミュージカル映画です!と言ったら鼻で笑われるレベル。ビョーク+αの歌と音楽でもってるといった感じ。当該シーンだけはそっちのエキスパートに監修任せた方がよかったんじゃないかなぁ。

あと一番最初の抽象画みたいなのがひたすらウニャウニャ変化していくシーンはなんだったんだろう。やたら長いし。『セルマの心境を表している』と解釈している方もいたが初上映時は真っ暗で音楽だけだったとか。その方がよかったなぁ。ビョークワールドに浸らせてほしかった。

 

・音楽

言うまでもなくメチャクチャよかった…………。家帰ってからサブスクでセルマソングス100回聴いた。

劇中歌ももちろんいいんだけど冒頭のミュージカル練習シーンで歌っていた『私のお気に入り』が個人的にすごく好きでフルで聴きてえ〜〜〜とずっと思っていた。しかし当然アルバム未収録。ビョークが歌う『私のお気に入り』が聴けるのはダンサーインザダークだけ!

ストーリーも悪くなかったけど上記の映像が思ったよりイマイチだったこともあり本当に『ビョークの音楽を映画館サウンドで聴く』が本懐になってしまった。

・ラストシーン

この映画を鬱映画たらしめる象徴的なシーン。
絞首刑に処される直前、死の恐怖に錯乱するセルマ。そこに親友キャシーが駆け込み、息子の手術が無事成功したことを伝え、証拠としてセルマの手に彼の眼鏡を握らせる。そしてセルマは穏やかな表情で『最後から2番目の歌』を歌い始める。その様子に処刑を見に来た者たちも刑務官たちも一瞬困惑するが、歌の真っ最中に刑は執行され、『ゴギリ』という首の骨が折れるイヤな音と共に歌も、セルマの命も強制終了。

この骨が折れる音、個人的に賛否両論ですね。
空想の世界に浸ってばかりのセルマに突きつける『現実』の音としてはこの上なく最悪で最高。シンプルに悪趣味。
だが『映画としての美しさ』の観点に立つとちょっと安直というか安っぽいというか。完全に無音の方が美しいかもしれない。

その後の舞台のラストのような文字通りの幕引きからのカメラが下からグイッとパンしてタイトルロゴがドーンセルマが中盤で語っていた『最後の歌が終わってカメラが天井に向けられていくと興醒めしてしまう』と嫌悪していたものをメタ的に彼女に叩きつけるのは喝采レベルの悪趣味でよかったです(満面の笑み)。

 

・自分の幸せ、他人の幸せ

この映画を『鬱映画』と評する人々の大半はセルマの人生とその末路を指して『鬱』としていると思うのだが本当にそうだろうか。

セルマは『不運』でこそあれ『不幸』ではなかったと思う。むしろ愛する息子のために奔走し目的も達成できたのだから『我が生涯に一片の悔い無し』くらいだっただろう。

有名な話として本来この処刑シーンにおいて当初のトリアーの筋書きでは錯乱するセルマに追い討ちをかける形で手術が失敗したことを告げ、絶望の最中で死んでいく、という流れだったがビョークが余りにも救いがなさすぎると抗議した結果このオチになった、と言われている。
私も当初の筋書き通りだったらただの胸糞な駄作になりかねないと思ったし、このエピソードにより『手術が成功したと伝えたのは実は最期の優しい嘘だったのでは?』なんて考察も生まれ、映画的には成功でビョークGJ、と最初は思った。

最初は。

 

でもこの展開、逆に最悪な方向に転がってない?

 

この映画の真の鬱ポイントは遺された息子ジーンの立場になったときに初めて見えてくると私は思う。

 

DiDに良い評価をつけられなかった人のほとんどは『セルマにイライラした』からだろう。


めちゃくちゃわかる。


セルマは純粋だ。そして裏を返せばどこまでも愚鈍で独善的なのだ。

獄中のセルマに面会に来たキャシーが「息子の手術費用を弁護士費用に充てて再審請求をしろ、彼にとって必要なのは視力よりも母親の存在だ」と説得するも、セルマは「視力の方が大事だ」と譲らない。

文字通り盲目だ。

一般的観点で見ればキャシーの言い分が圧倒的に正しい。

セルマとジーンの親子仲がひどく険悪であったのなら話は別だが、ジーンは学校をサボりがちでもまぁ反抗期の範疇というか、女手ひとつで自分を育ててくれている母親を憎んだりはしていないだろう。

そんな彼が、後に自分の目を治すためだけに母親は不当な裁判結果を受け入れ死んだと知ったらどう思うだろうか。

 

そして、そうまでして母がくれた『視力』によって視えるものは美しいものなのだろうか。

 

私には、周囲の人々から殺人鬼の息子と後ろ指を指される姿しか想像できない。
しかもその『悪意』はなんという皮肉だろうか、母の『善意』によって『視えて』しまうのだ。


自分の姿を見て眉を顰めたり、嘲笑ったりする人々の顔が。


すれ違いざまに悪態を吐かれるのが聞こえるだけの方がマシかもしれない。

無言で蔑むような視線を向けられても盲目であれば気付くこともないだろう。

 

全てはセルマのエゴなのだ。

他者のエゴにより業苦渦巻く世界に置き去りにされ、その元凶はもういない。その時彼は何を思うのか。

 

ここまで考えてやっとめっちゃ鬱になった。

仮にセルマとジーンが直接面会してジーンがキャシーと同じ主張をしたとしてもセルマは譲らなかっただろう。それほどまでに盲目な様は一周回って愚かで滑稽ですらある。

それでもセルマは幸せなのだ。愚かな女だと嗤っても、その幸せを否定する権利は登場人物の誰にも、我々にもないのだ。

 

・『鬱』ではなく『哀しさ』

セルマはあれほど善良な人々に囲まれていても彼らの厚意に甘えることはほとんどしなかった。車で家まで送るというだけでも拒み、一時的にでも金を借りるような真似すらしなかった。裁判費に関してもそれこそ親友であるキャシーなら金を借りてもいつまでも返済を待っていてくれただろう。
このあたりの理由が仮に『失明と同時に死も確定している病なので借りを作りたくない(その借りを息子に遺したくない)』などといったはっきりしたものがあるならばともかく、その理由に関しては描写はされていない。

が、セルマの境遇すべてがそうさせたのは何となく察しはつく。

 

移民という肩身の狭い立場。
生まれながらのハンディキャップ。
息子への愛。

 

純粋であるにも関わらず、セルマは他人を信じることができなかった。それは心のどこかに人生への諦めもあったからではなかろうか。

 

我々は多かれ少なかれ他者を利用して生きている。時に欺き、陥れ、他者の頭を踏み付けて欲しいものに手を伸ばす。

セルマも人並みに悪知恵があれば自分に好意を寄せるジェフを都合よく利用することも、キャシーはじめ誰かに金を借りてそのまま逃げることだってできた。

しかし、そうするには彼女は純粋すぎた。悪意というものを知らなさすぎた。
その結果、この先息子に降りかかるであろう悪意も想像できなかった。

 

悲しい。あまりにも哀しい。

ダンサー・イン・ザ・ダークは悲しい映画なのだ。

 

『鬱映画』じゃなくて『泣ける映画』にカテゴリ移動していいのではなかろうか。