喪女が語る好き漫画〜『累』にみるVtuber〜

鬱シリーズにカテゴライズしようかちょっと迷ったけど胸糞悪くなる感じではないな…と思ったので単純な好き漫画記事です。あと鬱シリーズばっか書いてると頭おかしなるので

 

演劇漫画が好きだ。バレエ漫画なんかも好きだ。
ああいうのは非凡な才能を持った主人公が周りを蹴散らしながらスターダムを駆け上がっていくので見ていて気分が良い。
あとは生まれてこの方日陰者なのでステージの上で輝く存在というのに漠然とした憧れがある。ライブや観劇などに行くと本来の楽しみと同時になんとなく羨ましさを感じる。一度でいいからスポットライトを浴びてみたい、そんな人生。
逆にバンド漫画みたいなのはあまりハマらない。みんなで切磋琢磨しながら泥臭く這い上がっていくのは性に合わない。

 

…といっても伝説的演劇漫画ことガラスの仮面未読なんですけど。まだ未完と知って腰抜けたよあたしゃ。

今んとこ読んだのはこの『累』と『昴』、『マチネとソワレ』あたり。SWANと舞姫テレプシコーラを読めよ。読みますいつか。

あとアクタージュも読みたかったんですが…残念でしたね…。

今気になってるのは『ダンス・ダンス・ダンスール』。マンガワンに一気読み来たとき7巻あたり?まで読んで面白かったので完結したら読もう〜と思ってたら気付けば既刊30近くなってて焦ってる。アニメもやったばっかだけどどうだったんだろ。よさげだったら見たい。

 

https://evening.kodansha.co.jp/c/kasane.html

 

一話はこちらから。要は『醜い女が他人と顔を入れ換える口紅を使い、美しい者の顔を奪いながら女優としてのし上がっていく話』です。
(※ちなみにこの世界はファンタジーなので母の代から何百何千回使っても口紅は減らないし警察は無能なので登場人物がどれほど殺人や死体遺棄をしても気付きません)

 

『醜い自分を捨てて美しくなりたい』

 

わかる。容姿に関して揶揄われたりいじめに遭った経験はないが、それでも美人とは程遠い醜女の喪女なのでめっちゃわかる。
なんならこの数年のマスク生活のうちに整形すっか!などと現在進行形で考えている。しかし予定外の出費が嵩み実行できていない。早くしないとマスク生活が終わってしまう。急がなければ。

女性にとって、いや男性であっても『美しくなりたい』という願望は誰にもあるものだが、ハシカンやら石原さとみみたいな顔になりたいと思いこそすれど実際に彼女ら自身になりたいわけではないだろう。
『累』は演劇漫画であると同時に、『他人の顔を奪い、他人として生きていくとどうなるか?』を描いたヒューマンドラマでもある。

 

・自分を捨てて別人になることは幸福か?

最終的にかさねは美しい姿でいることに苦痛を感じるようになった。舞台で喝采を浴びる人物は他人の顔に設定された性格を入れた仮初の存在であり、その中に居る『淵かさね』のことは誰も知らない。誰も自分を見てくれない。そのことに孤独を感じてしまったのだ。


読んだ当時はそんなもんかねぇと思ったが今ならわかる。


Vtuberである。


彼らもかさねと同じで『ガワ』と呼ばれる美少女やイケメン(だけではないが)の姿を持っているが、その中で実際に考え、話しているのは紛れもなく人間だ。普通に戸籍があって、ジャージでコンビニに行ったり休日は学生時代の友達と遊びに行ったりする普通の人間だ。
リスナーはしばしばそのことを忘れ、問題になったこともある。Vtuberはガワ+声だけの存在だとつい思いがちなのだ。

実際人気Vと呼ばれる、または呼ばれていた存在の中で既にこのかさねと同じ状態に陥った人は絶対いるだろうと思っている。
美少女の容姿と可愛らしい声と面白い配信内容でどれだけ『●●(キャラ名)すき』と言われても赤スパを投げられてもそのリスナーの愛は決して中の人に向けられることはない。リスナーが愛しているのはあくまで『●●というVtuber』だから。


自分なのに自分じゃない存在が勝手に独り歩きしていく様は誰にとっても恐ろしいと思う。

 

「チヤホヤされたいしあわよくば有名になりたいからVtuberをやる。別に趣味だしやめたくなったらやめればいいし」というスタンスの人は非常に危険だと個人的には思う。目論見通り有名になれたとて独り歩きしていくガワと中身である自身との乖離に向き合えるのか。なれなかった場合本来の自分と正面から向き合えるのか。

これはコスプレイヤーなどにも見られる傾向だが、『ガワの人気=自分の人気』だと思い始めたら黄色信号だ。Vtuberをやる上で一番重要なのは自分自身とキャラを切り離して冷静に俯瞰すること、あくまで「自分が●●というキャラを演じている、プロデュースしているんだ」という意識だ。


そもそもVtuberという『もう一人の自分』を生み出している時点で本来の自分に自信がない人が大半ではなかろうか。上述の理由なら顔出し配信をすればいいのに、それをしないのは顔まで出しといて何も成し遂げられなかったとき現実世界で後ろ指をさされるのを恐れているからだろう。シンプルな保身である。(そう考えるとやはり『NEEDY GIRL OVERDOSE』の超てんちゃんもといあめちゃんは強い)

『自分には何もないからせめてインターネットくらいではチヤホヤされたい』という願望はこのSNS社会誰でも抱えていると思う。
しかし虚構の世界であるインターネットでも何も残せなかったそのときは、すごすごと元の現実に戻り本来の自分で生きていくしかないのだ。

かさねには他の追随を許さぬ演劇の才能があった。だから最終的に美しい『ガワ』を手放して醜い素顔で板の上に立つことを選び、最初で最期ではあるが成功することができた。

『累』ではよく舞台上の世界を『虚構』と表現している。虚構の世界を現実にする、それができるのが優れた役者である、と。
生身の人間が立つ舞台はたとえ一瞬でも虚構を現実に変えることができるかもしれないが、インターネットは虚構だ。どこまで行っても仮想空間でしかない。3D化しようともオフラインイベントを開こうとも生身の人間が出てこない限りはVtuberは永遠に虚構だ。そこがかさねとの違いだ。

Vtuberは承認欲求の集積所であってはいけない。趣味でやるならちょっとした変身願望を満たす、イベント会場のようなものであればいい。その変身願望も、ハロウィンでコスプレをするくらいの、配信している時間だけの非日常程度に留めておくのが一番健全だ。
自分を客観視して自我を保って承認欲求をコントロールして楽しいインターネッツを。

 

・演劇が見てえ

 

違う。こんな説教臭い話をするつもりではなかった。

実際のところ『伝説の女優/俳優』ってなんなんだろうか。かさねやその母透世(いざな)は『どんな役でもその場に生きているかのように表現する演技力(と華やかな美貌)』を持ち、それを評価されることで『伝説』とされていた。

現実世界における『伝説の役者』って誰だろう。チャップリンのような斬新さで演劇界に革命をもたらした存在はいるが誰もが圧倒される演技力をもって伝説とされる人物…?

当方とかく芸能人に疎いので全然思い浮かばない。ハリウッド俳優レベルになると限りなく伝説に近い人もいるかもしれない。けど英語できない日本人には外国人の演技が上手いか下手かは正直よくわからない。
それでも『この手の役を演らせたら右に出る者はいない』という人は多くいる。声優でいうなら絶対裏切る胡散臭い役に関しては石田彰の右に出る者はいないし幼女に関しては久野美咲の右に以下略。そう考えると声優界なら山ちゃんが生ける伝説…なのか…??

存命でも故人でもいいので『この人こそ伝説だ!』と思う方がいたら挙げてほしい。

 

それでも『虚構が現実になる』瞬間は確かに存在する。
当方観劇はたま〜〜〜〜に2.5舞台を観に行くくらいなのだが、やはり稀に『●●(キャラ)がいる…………』と思うことがある。
それは大体そのキャラの見せ場と呼ばれるシーンではなく、他の役がメインで話を回しているときに舞台の隅で背景として立っているときの何気ない仕草を見たときだ。

つまらなさそうに髪をいじっていたり、ふと腰掛けたときの座り方だったり。

神は細部に宿るとはよく言ったもので、顔だけでなく中身でも人気のある2.5俳優というのはそういうのが上手い。
それを突き詰めていくといわゆる『伝説』になるのだろうか。

 

演劇漫画を読むと観劇に行きたくなるし、バレエ漫画を読むとバレエを観たくなる。

後者は割と簡単だが、シェイクスピアとかチェーホフだとかの古典演劇が観てみたい!となっても中々タイムリーにやってることって中々ないし情報探すのも難しい。しかも帝劇クラスの大々的に広告打ってて目に入る規模のやつって大体『新解釈!』だの『舞台設定を現代日本に移し』だのの余計なものがついている。
一度でもオリジナルを観たことがあればそれでもいいのだがまずは原典に忠実なやつが観たい。でもやってない。中小劇団でハズレ引きたくない。

難しい。

 

生きてるうちにハムレットマクベスサロメあたりは観たいし、かさねのような役者を見つけてみたい。